自分で道を切り開く喜びが残された学問、麻酔学。新しさはそのまま可能性となって、目の前に広がっている。
世の中には、知っているようで、実は知らないことがたくさんあるものだ。例えば麻酔科と聞いて、その仕事内容を正確に説明できる人が果たして何人いるだろうか。手術を受けたことのある経験者ですら、どの程度の認識を持っているか、実際は怪しいものだ。
「こんなに大きい手術を受けた、という話の中でも、こんなすごい麻酔を受けた、とは言わないでしょう。まず、麻酔の話は出てこない。麻酔がかかったら、そこで終わりなんです。僕ら麻酔医は、完全に縁の下の力持ち状態」
それでいいんだ、と笑うように杉内は語る。だが、一般人の認識がどうであれ、麻酔学の重要性に変わりはない。麻酔学が独立した領域の学問となって数十年。患者に痛みを感じさせないことは、医学の可能性を大きく広げた。
聖マリアンナ医科大学病院の麻酔科は、外来と手術という二つの舞台を持つ。杉内の担当は手術室。後進の指導にあたりながら、難しい症例では自らが麻酔を手がけることもある。
手術室での麻酔科の医師の仕事は、患者の循環管理、呼吸管理、そして麻酔管理である。ごく簡単に言えば、血圧や脈拍を上下させ、麻酔を適正レベルに保つのだ。患者によけいな負担はかけず、外科医などがスムーズに手術できる土台をつくる、基礎工事のような役割を担っている。
手術中は、刻々と状況が変わる。今ここで手を下さないと確実に悪い方向へ進む、という瞬間が訪れることも珍しくない。
「自分の治療がリアルタイムで結果として現れます。曖昧な形ではなく、白黒ハッキリしている。答えがすぐに出るんです。そこが魅力でもあり、怖い面でもあるのかもしれませんね」
一瞬の勝負。ふと、そんな言葉が浮かぶ。だが意外にも杉内は、むしろ怖がりな人こそ、麻酔科に向いていると語る。
「怖いから、慎重になる。石橋を叩いてから渡るんです。あるいは、臆病なくらいに自分の頭の中でいろいろ状況を設定して、その対処を考えておく。そうすると、非常にいい管理ができるんですよ。ひとつ手を打ったら終わり、では困る」
手術室で、患者はさまざまな医療機器に囲まれる。それらは、脈拍、血圧、動脈、血中酸素濃度など、さまざまなデータを表示し、今患者がどんな状態にあるかを一目瞭然に示す手がかりとなる。
全身麻酔の場合、患者は眠ったままである。痛い、苦しいといった感覚を本人が感じることはないが、皮膚を切れば神経はそれを痛みとして伝達し、体にはさまざまな反応が出る。
「麻酔をかけていても、お腹を切れば血圧は下がります。痛く感じはしないけど、神経のバランスで体は痛いぞといって、血圧を下げるわけです。患者さんはそんなこと言いませんから、僕らは血圧を目安に体が痛いかどうか判断して、麻酔薬を入れたりする。脈拍が増えることにも、いろんな原因があります。体がいろんな信号を出してるんです。そういうデータを通して、患者の体が何を言ってるかを把握することも重要ですね」
データを元に状況を読み、少し先をゆく対処をする。そしてどんな状況にも対応できるだけの能力を身につければ、麻酔医として一人前だ。杉内は、そこまでは10年かかるだろうと語る。
「麻酔医の場合、標榜医と言って看板に麻酔科を掲げて開業できるのが3年目から。その上の指導医になるのが7年目からなんです。指導医のいる病院には研修医をおけることになっていますが、本当に一人前だと言い切れるまでには、やっぱり10年かかるでしょうね。」



手術を受ける患者と麻酔科の医師が関わるのは、手術前後のわずかな時間だけである。「必ず手術前には患者さんにお会いして、挨拶と一緒に麻酔に対する疑問や心配事など心を割って話し合う時間を持ちます。今までこそ麻酔のお医者さんというイメージが定着しましたが、昔は何をする方なのですか?という感じで(笑)。術後も回復状態を見ますが、患者さんとの接点はそれくらいですね」
手術室で働く麻酔医と患者との関わりが薄いのは、やむを得ないだろう。だが、外来は違う。ペインクリニックと呼ばれる麻酔科の外来に通うのは、日常的に麻酔の世話にならざるを得ないほどの痛みを抱えた患者たちだ。
「耐えがたい痛みをとるのが外来の仕事。例えばガン性疼痛の患者さんには、体のいろんなところが痛みます。だから一つ痛みをとると、次に別の痛みが出る。こうなると痛みとのいたちごっこですね」
こういう風にすると痛い、今度はこんな痛みがある…。患者の訴えにじっくりと耳を傾け、それに対処する。外来では、患者とのコミュニケーションが重要とな仕事になる。手術室と外来。麻酔学という中身に変わりはないだろうが、患者が受ける印象はまるで違う。
「以前は飲み薬を飲んでガマンするしかなかった痛みが、神経ブロック治療などで10~30%程度になる。これは喜ばれます。手術室の仕事とはまた違ったやりがいを感じますね」
杉内は、昭和56年卒の5回生。聖マリアンナ医大のOBである。
「聖マリアンナ医大を選んだのは、都心の大学にはない環境の良さが気に入ったからです。当時は畑の中に家がポツポツとあるような感じ。これからの場所だから、病院としても伸びるだろうと思ったんです」
学生時代は循環器内科がやりたかったという杉内。だが別の角度からものを見たいという気持ちもあり、悩んだと語る。
「循環器はやりたいのだが、外科も内科も基礎研究に近いこともやってみたい。そこでいろんな要素を加味している麻酔科はどうかなあと考えたんです」
今にもまして、麻酔科の知名度が低かった時代のことだ。
「親の世代が、麻酔という学問を知らないんですよ。麻酔が麻酔科として独立した形になったのは、昭和30年前後。だから麻酔をやりたいと親に話したときは、そりゃどんな学問だと言われて(笑)。やってみれば外科系とも密接だし、どんどん深みにはまりましたね」
ちなみに杉内の研究テーマは呼吸器。当初の希望とは異なったが、ライフワークとして満足してる。
杉内が自分の研究・実験にあてられる時間は、週に1日。それも急な大手術が入れば中断せざるを得ない。現在、取り組んでいるのは、横隔膜の疲労時間を測定する実験だ。
「体中が細菌だらけになる敗血症では、たいてい呼吸不全も伴います。呼吸不全には、肺そのものの障害もあるけど、呼吸筋にも障害があるんじゃないかと考えました。敗血症後に人工呼吸器をつけて、なかなか自発呼吸が戻ってこないというのは、呼吸筋が疲労しやすいんじゃないか、という発想で」
敗血症で炎症状態になる際には、サイトカインという物質が関係してる。だが具体的にはどんな種類のサイトカインがどのように作用してるのかは、全く解明されていない。この分野は学会でも注目を集め、多くの研究者が取り組んでいるという。
杉内は、サイトカインの一種を入れた溶液にラットの横隔膜を浸し、一定の刺激を与えて収縮させ、その収縮力の変化を測定する実験を行っている。
実はこの実験、'93年9月から1年2ヶ月間留学した、ニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学モンテフォーレ・メディカルセンターで、杉内が現地の研究員と共に開発した手法だ。その研究成果は、アメリカ胸部疾患学会で発表し、若手研究者奨励賞を受賞した。
麻酔学そのものが新しい学問である上、最先端の分野の研究となると、どうしても試行錯誤が伴う。時には実験に行き詰まることもある。アメリカ行きは、ちょうどそんな行き詰まりの突破口となった。
「まだ若い学問だから、研究に関しては、ツテを頼っていってヒントをもらったりしながら、自分で考えて進めるしかないんです」
最先端の研究であればこそ、実験道具は市販されてはいない。例えば横隔膜を保持する器具も、針金1本ずつ曲げて作った手作りだ。道具ひとつから手作りで実験を進めなければならないのだ。
手術室での勤務と研究以外に、大学での講義という仕事もこなす杉内。毎日のスケジュールは、想像以上にハードだ。だが彼は、むしろこの状況を楽しんでいるかのうようにも見える。
「学生やスタッフとは、なるべく距離を置かないようにしています。その方がお互い楽しいでしょう。同じ仕事をするなら、楽しくやりたいじゃないですか。それに時間に不規則な仕事に理解を示してくれる家族にも感謝しています。」
忙しさで自分を消耗しない生き方が、笑顔の後ろに見えた。
(文中敬称略)