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掲載日:2021年1月7日

和歌山毒物カレー事件における22年間の活動:小児と成人での急性ヒ素中毒の症状の違いに関与するヒ素代謝の解明

聖マリアンナ医科大学予防医学教室は和歌山毒物カレー事件の原因究明や患者対応を経験しました。小児と成人では急性ヒ素中毒の発症初期の症状は明確に異なるが、しかしその原因が不明でした。最新のヒ素代謝の評価法を基に原因を解明しました。

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1.急性中毒の原因

1998年7月25日、夕刻、和歌山市園部地区の公園にて開催された夏祭りにて提供されたカレーライスを食した住民67名に、原因不明の嘔気・嘔吐、腹痛、コレラ様の強い下痢などの消化器症状が発症しました。そして、4名が半日以内に死亡し、63名が生存しました。最初は食中毒、その後、シアン中毒が疑われたが中毒の原因は特定されませんでした。中毒が発生した時期、山内(当時、聖マリアンナ医科大学予防医学・助教授、米国メリーランド州立大学医学部大学院毒物学・客員教授)は米国での国際会議に参加していました。和歌山市にてシアン中毒で4名死亡の情報は、帰国の航空機内で読んだ新聞記事にて知りました。しかし、カレーライスを食しシアン中毒で死亡との情報は毒物学の経験から瞬時に間違いであると理解しました。なぜなら、シアン化合物には強い刺激性があり、カレーライスをたやすく人々が食することは不可能であるからです。
帰国後、厚生省(現 厚生労働省)から中毒の原因解明に関する要請が自宅にあり、翌朝、元学長の長谷川和夫先生の許可を頂き、和歌山市中央保健所へ向かったのは、中毒発生9日目のことでした。現地での情報収集と数名の患者の尿を確保し、当日の深夜に大学に戻りました。早速、予防医学教室に設置していた独自開発した超低温(液体窒素)捕集―還元帰化―原子吸光光度計を用いて、患者の尿中ヒ素について化学形態および濃度を測定しました。患者の尿からは極めて異常のヒ素が検出され、その濃度は一般人に比較して300−500倍でした。この検査値と消化器症状から急性ヒ素中毒であることが判断でき、厚生省に報告しました。中毒発生10日目において急性ヒ素中毒であると正式に確定されました。予防医学教室は、その後、患者対応に3ヶ月間の支援を行いました。事件当時、我が国にはヒトの生体試料中のヒ素について、化学形態とその濃度を測定できる技術や知識は私一人で、また、国際的にも数名の研究者のみが同様な技術を保有していました。


2−1.急性ヒ素中毒の概要

この急性ヒ素中毒の特殊性は、1歳児4名、3歳児2名、4歳児1名、5歳児3名、6,7,8歳児が各2名、9-13歳各1名など低年齢者が含まれていたことであります。急性ヒ素中毒の原因はカレールーを作る鍋に混入された三酸化ヒ素(無機ヒ素に属す,iAs)でした。三酸化ヒ素は有名な毒物として知られ、無味無臭で刺激性がない物質であり、この物性から容易に口に含むことができました。鍋に投入された三酸化ヒ素の結晶は大部分が溶解し、カレールーに含有していたヒ素は約6mg/gと極めて高濃度でした。一般的に三酸化ヒ素の致死量は成人でおおよそ300mgです。重症者では200mg以上のヒ素摂取者が確認され、一方、軽症者では20−30mgのヒ素摂取量でした。急性ヒ素中毒患者のヒ素摂取量は中央値にて比較すると、小児(64.6mg)と成人(76.0mg)では統計学的に有意差がありませんでした。なお、三酸化ヒ素は急性前骨髄球性白血病(APL)の治療薬(トリセノックス、注10mg)として用いられています。カレーライスを摂取した後、約5-10分で全員に消化器症状を認めました。嘔気・嘔吐は患者に共通する症状で腹痛や下痢が続いて認められました。重症者では低血圧が数日続き、頻脈、虚脱、ショックもみられ、循環器障害が主な死因であると推測されました。重症者では発症10日目頃から、四肢末梢部に両側対称性末梢神経障害(感覚異常と運動麻痺)を認めました。さらに、皮膚障害として、紅疹(図1右、痛みと痒みがない)が腹部と脇下、後頸部などに認められました。なお、この急性ヒ素中毒では原因解明に10日間が費やされたため、急性ヒ素中毒に対する有効な治療薬であるBAL(British Anti Lewisite)の投与が全員に行われず、対症療法のみでした。発症後1週間を経過する時期において、小児の患者は軽症であることから退院しました。しかし、成人の患者は重症化する傾向が認められました。この現象は治療に当たった臨床医のみならず関係者において共通する大きな疑問でした。

予防医学02


2−2.急性ヒ素中毒患者63名の尿中ヒ素検査

本来、哺乳動物や海洋生物には無機ヒ素をメチル化する機序が存在し、哺乳動物でのメチル化は解毒機序であると推測されています。メチル基供与体はS-アデノシルメチオニン(SAM)であり、このSAMはDNAのメチル化が本来の役割です。哺乳動物でのメチル化にはヒ素を3価の状態(iAsIIIやMMAIII)にするために還元剤である還元型グルタチオン(GSH)が必要です(図2)。

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ヒトでの無機ヒ素の最終代謝物はジメチルアルシン酸(DMAV)で、DMAVの急性毒性は三酸化ヒ素(iAsIII)に比較して約1/60の毒性です。ヒ素は化学形態の違いから毒性が異なり、また、ヒ素の主要な排泄経路は尿であり、この様な背景から、ヒ素中毒患者の尿中ヒ素の検査では化学形態別のヒ素測定が重要となります。
急性ヒ素中毒患者の尿中ヒ素濃度は、和歌山市内の病院に入院している患者の治療に当たられていた臨床医から要望があり、厚生省と和歌山市は当研究室での検査の継続を希望しました。一方、カレールーから摂取した三酸化ヒ素が患者の体内からおおかた排泄された科学的証明の結果も求められました。当時、我が国には一般健常者の尿中ヒ素の基準値が存在していませんでした。そこで、当研究室が環境省から委託された全国の健常者249名(内科診断と血液・生化学検査から判断)から作成した尿中ヒ素濃度を用いました。成人健常者での尿中ヒ素濃度は約50µg/g・クレアチニン以下になります。急性ヒ素中毒患者の尿中ヒ素濃度は小児で2ヶ月以内、成人では2-3ヶ月にて基準範囲に回復しました。本論文作成には、これら全ての尿中ヒ素の結果を用いました。


3.慢性ヒ素中毒患者からのヒ素代謝の情報

和歌山カレー毒物事件が発生する以前から、アジアや中南米諸国では大規模な慢性ヒ素中毒が発生していました。中毒の原因は自然界に存在する無機ヒ素を含有する飲料水(井戸水)で、これらの無機ヒ素汚染水は産業活動由来ではありません。
予防医学教室は、1996年10月から、日中国際学術調査研究班(中国医科大学、旭川医科大学、他)を組織して中国での慢性ヒ素中毒に関する疫学調査を開始し、現在も継続しています。中国(内蒙古自治区、山西省、貴州省、他)における疫学調査や介入研究から、慢性ヒ素中毒は農村部に集中し、同じ井戸水を飲み同じ食事内容であっても、小児の患者は希で、成人の男性が女性より重症化の傾向を認めました(図3、主要な症状である皮膚障害)。

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我々は、慢性ヒ素中毒患者の尿中ヒ素の検査から、症状の重症度と無機ヒ素に対するメチル化効率(%MMA, %DMA)やメチル化能力(DMA/MMA比)に違いが存在していることを明らかにしました。成人は小児に比較して、男性は女性よりそれぞれメチル化能力が劣っていました。これらの知見は、急性ヒ素中毒患者における症状の違いを解析・評価する上で重要な役割を果たしました。近年、アジアや中南米での疫学調査は盛んであり、アジアの慢性ヒ素中毒の実態や予防対策に関する啓蒙書の出版についてSpringer Nature社から依頼を受けました。アジアの研究者の協力を得て2018年に発刊したArsenic Contamination in Asia, Biological Effects and Preventive Measuresは、本年、United Nations Sustainable Development Goals (SDGs)の活動を支援する出版物に選ばれました(URLを参照)。
Springer Nature:
Arsenic Contamination in Asia, Biological Effects and Preventive Measures.
https://link.springer.com/book/10.1007/978-981-13-2565-6


4.小児と成人での急性ヒ素中毒患者におけるヒ素代謝の解明

急性ヒ素中毒の発症初期において1週間を経過する頃、小児は軽症で退院しましたが、しかし、成人は重症化する原因が不明でした。
本論文(米国毒物学会機関誌、Toxicology and Applied Pharmacology)を執筆した背景は、「何故、小児は軽症で成人は重症化するのか」、20年以上解明できなかった問題に答えを求める仮説が思考できる状況となり、そこで中毒原因物質である三酸化ヒ素の代謝について解析・評価を行いました。なお、近代医学におけるヒ素中毒研究の最初の論文(1900年、英国でのビールヒ素汚染からの大規模な慢性ヒ素中毒事件)はLancet誌(1巻1号)に報告されました。その後、中毒症例が多数報告されるも、集団でかつ治療を受けていない急性ヒ素中毒患者に関しての研究論文は報告されておらず、本論文がこの100年以上のヒ素中毒研究の歴史で初めてです。
この論文を執筆するうえで、1)中国での疫学研究から解明したヒ素のメチル化能力と皮膚症状との関係、2)バングラデシュ、中国、メキシコ、アルゼンチンなどでの慢性ヒ素中毒患者に対する疫学研究から小児は成人に比較して皮膚障害が軽症であるとの情報、それらの研究成果が示唆するのは、ヒ素の代謝を解析・評価するうえで指標となるメチル化効率とメチル化能力について数量化して統計検定することが重要であると考えました。
急性ヒ素中毒患者の生存者63名のうち情報が正確な61名を研究対象とし、小児と成人において尿中ヒ素の化学形態別の濃度から、メチル化効率とメチル化能力、そして、三酸化ヒ素の代謝物のヒ素における相関関係などを解析して評価しました。今回、これらの情報の精査や統計検定などは、予防医学教室の高田礼子教授と共に作業を行いました。
結論として、小児と成人での健康障害の違いの原因は、カレールーから摂取した三酸化ヒ素に対するメチル化効率(論文Table 4)やメチル化能力(論文Table 5,6)から推定できることが明らかになりました。症状の軽い小児では、メチル化効率の指標である%DMAやメチル化能力の指標のDMA/MMA比の値などが明確に上昇していました(図4)。

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この結果は猛毒の三酸化ヒ素を肝臓にて迅速にメチル化(解毒機序)して腎臓を経由して尿へ排泄したことを示すものでした。逆に、成人では、メチル化が不完全であることを示す指標である%MMAが増加し、カレールーから摂取した三酸化ヒ素とその中間代謝物(MMAIII)が体内に長時間貯留したために重症化したことが推定されました(論文Table 4-6)。従来から、低年齢者(小児)は大人に比較して有害物質・因子による生体影響が生じやすい、すなわち脆弱であるとする理解が一般的に支持されています。しかし、本研究の価値は、小児の急性ヒ素中毒患者から得られたメチル化効率とメチル化能力の結果より、三酸化ヒ素を迅速に減毒化して尿中へ排泄する機序の存在をヒ素中毒研究において初めて解明したことです。そして、この研究成果は、無機ヒ素暴露による慢性ヒ素中毒患者において、小児は成人に比較して軽症である現象を支持するものでもあります。
本研究から得られたさらなる知見として、現代の医学生物学領域の研究技術では解明されていない、低年齢者における生体防御システムが存在している可能性もあり、当該分野の研究発展に期待し、かつ推進すべきと考えております。他方、成人で重症化した急性ヒ素中毒患者らの知見から、救急医療において中毒原因物質の迅速なる分析からの鑑別診断、そして、有効な治療薬による処置がいかに重要であるかも再確認できました。
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0041008X20304749?dgcid=author
(2021年1月21日まで無料ダウンロード可能)

https://doi.org/10.1016/j.taap.2020.115352


補足

現在、無機ヒ素は生活習慣病(がん、糖尿病、心血管疾患)の原因物質であることが確認され、そして、認知機能障害の原因物質であることも推測されています。既に、WHOは生活習慣病の予防対策として食事からの無機ヒ素摂取量の軽減を推奨しており、さらに、EU諸国やスウェーデンでは小児の認知機能障害の予防対策として米や米加工品の摂取を禁止しています。
本研究成果の応用・展開として、生活習慣病の原因である無機ヒ素の減毒作用にメチル化の促進は有効であります。しかし、メチル化の促進を目的とした予防薬は未だ開発されていません。無機ヒ素に対するメチル化促進効果は機能性食材(スプラウト)にて解明されており、これまでに我々はブロッコリーにも無機ヒ素のメチル化促進効果があることをヒトでの研究にて確認しています(未発表)。今後、無機ヒ素暴露による生活習慣病や認知機能障害に対して、予防医療につながる機能性食材を用いた研究推進の必要性を考えています。

予防医学教室
教授 高田礼子
客員教授 山内 博(文責)

 

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