MENU

Marianna Today

  1. TOP
  2. Marianna Today
  3. 松石雄飛看護師(大学病院看護部)が被災地活動について表彰されました

掲載日:2024年5月23日

松石雄飛看護師(大学病院看護部)が被災地活動について表彰されました

このたびの能登半島地震に際し、神奈川県看護協会の災害支援ナースとして被災地・輪島市で医療支援活動に従事した松石雄飛看護師(大学病院)が、神奈川県看護協会より表彰されました。
被災地の状況や活動の内容につきましては、松石看護師の「被災地活動報告」をお読みください。

被災地活動報告

災害支援ナースとは、看護職能団体の一員として、被災した看護職の心身の負担を軽減し支えるよう努めるとともに、被災者が健康レベルを維持できるように、被災地で適切な医療・看護を提供する役割を担う看護職のことであり、都道府県看護協会に登録されています。私は人のために何かをしたいと考え看護師になりました。災害が起こると、猫の手も借りたいほどニーズが高まりますが、勤務の都合でなかなか被災地へ行けないことをもどかしく思っていました。困っている人が沢山いるのに、私は水も電気も食料も家も大切な人たちも失わずに暮らしていると思うと無力感を感じていました。そこでかながわDPAT(災害派遣精神医療チーム)に登録しました。しかし、良いことではありますが派遣要請がなく、被災地支援ができない状況が続きました。また要請があっても、勤務調整が難しく、後方支援も不十分で隊を組めないという課題もありました。そこで、個人単位で派遣要請がある災害支援ナースのことを知り登録しました。
令和6年元日に能登半島地震があり、災害派遣要請があると考え、準備を進めていました。1月9日には派遣調整のメールが届き翌日には派遣が決定し、1月12日から3泊4日の派遣となりました。災害支援ナースの活動は自己完結型で食料、水、寝袋などすべて持参となるので、その準備に時間がかかりました。荷物の重量約15㎏を登山用のリュックに入れ、水は1日2Lで多めに持つことになり10Lとなりました。派遣先は輪島市、12日の10時に金沢駅に集合ということのみがはっきりとしていたことです。
金沢駅には各都道府県の災害支援ナースが集合しており、そこから県庁にバス移動し、すぐに各方面別にバスを乗り換え出発となりました。何処に何人、誰が行くかなど詳細な説明はなく、輪島市へ向かうことになりました。道中何時間かかるかなどの説明もなく、移動中に一度派遣先の変更がありました。途中トイレ休憩がありましたが、これより先は断水のためトイレは使えませんとアナウンスされました。道中も多数の家屋倒壊、道路の断裂、隆起、陥没があり、迂回、通行止め、徐行しながら約4時間かかり輪島市役所の調整本部へ到着しました。派遣先の変更があったため、バス移動はできず、山道を含み約20分かけ徒歩で移動し派遣先に到着しました。情報錯綜しており、派遣先では活動を断られ、再度調整本部へ移動し、最終的な派遣先の鳳至小学校の避難所についたのは21時を過ぎていました。
校舎は半壊状態で、教室も傾いている状況でした。避難所の体育館も冷たい床にようやく畳が敷かれ、被災者の方々は身を寄せ合い暖を取っている状況でした。断水していましたが、電気や支援物資、炊き出し、自衛隊の風呂、仮説トイレはあり、生活はできる状況でした。しかし約140人いるなかで居住スペースの仕切りなどはなく、咳をされている方が多く感染症が蔓延するリスクが高いと感じられました。体育館の2階のギャラリースペースの狭い通路に寝袋を敷き休みました。夜間も被災者の方々の咳を聞きながら、余震も多く、隙間風もあり、よく眠れませんでした。第1班として派遣され、それまで避難所に医療班は入っておらず、一から全容把握に努めました。病院のようにエリアマップもなく、居住スペースもはっきりせず、カルテも無ければ、名前もわからない状況のなか、被災者の方々の話を聞きながら、健康状態の把握に努めつつ、マップ、カルテを作成していきました。来訪する医療班と情報共有をし、優先順位を決め診察に同行しました。医療ニーズの把握と共に清潔ケアのニーズも把握しました。発災から一度もお風呂に入れていない人もいました。そのため自衛隊の風呂からお湯を借り、ペットボトルと吸水シートで洗髪をしました。また段ボールとビニールで桶を作り、手浴、足浴のケアを行いました。ケアの最中には気持ちよさそうに眠ってしまう方もいました。余震が多く、天井からコンクリートが落下して来たため、設備を見直してもらったところ、壁の崩落の危険性があることが発覚し、居住スペースを壁から2,3m離さなければいけなくなり、市役所の人と協力し被災者の方々と相談しながら大移動しました。グラウンドには140台ほどの車が駐車しており、車中泊の方も複数名いることがわかりました。支援物資で弾性ストッキングが届いたため、車のナンバーをメモしながら弾性ストッキングを配り、看護師が避難所に常駐していること、エコノミークラス症候群の予防をアナウンスしました。咳、熱が多いなか、対症療法しかできず、支援物資の市販薬を既往歴に気をつけながら配布し、経過観察しました。私ができた支援活動はほんの一部で多くの課題を残し、次の隊へ引き続くことになりました。一日も3泊4日も一瞬で過ぎるほど過酷を極めましたが、ケアの中見られる笑顔や感謝の言葉に支えられながら活動することができました。被災地の生活や心の復興までにはまだまだ時間を要しますが、日々心は寄り添いながら、自分にできることが何か考えながら生活していこうと思います。
今回災害支援ナースという看護師集団だからこそできた生活を支えるケア。災害医療チームの役割では洗髪、手浴、足浴など清潔ケアは行えなかったと思います。派遣にあたり、職場の上司、同僚、家族、友人、看護協会の方々、被災者の方々など多くの人の支えがあったことを再認識し、深く感謝申し上げます。

聖マリアンナ医科大学病院 看護部 松石雄飛



(写真左)活動中の松石看護師、(写真右)松石看護師が活動した避難所(輪島市立鳳至(ふげし)小学校)

神奈川県看護協会の長野広敬会長から表彰される松石看護師

表彰された災害支援ナースを代表して挨拶する松石看護師